本城寺について

本城寺の由緒

最初はお寺では無く単なるお堂

本城寺ほんじょうじ開基檀越かいきだんのつ(※1)は石井勘解由左衛門尉吉房いしいかげゆさえもんのじょうよしふさという人物です。

吉房は平井城(※2)の城主・上杉憲政うえすぎのりまさの家臣でしたが、北条氏に攻められ平井城は陥落。

吉房と上杉憲政は長尾景虎ながおかげとら(※3)を頼り、越後に脱出します。

その後、長尾景虎により平井城は奪還されましたが、長尾景虎が関東に出陣した際には平井城ではなく厩橋城まやばしじょう(※4)を拠点としました。

その為平井城は廃城となり、この時に吉房は宮崎村(※5)で帰農(※6)することとなります。

吉房は宮崎村に法華堂を建立し、鎌倉の長勝寺から長勝院日皆ちょうしょういんにちかい上人を迎え開山かいさん(※7)としました。

これが本城寺の始まりです。

※1:お寺を建立した最初の檀家
※2:現在の藤岡市にあったお城
※3:後の上杉謙信
※4:現在の前橋市にあったお城
※5:現在の富岡市宇田
※6:武士を辞め農家になること
※7:お寺を始めること

池上本門寺の末寺となり「本城寺」というお寺に

吉房の子である石井守清いしいもりきよは父の志を継承し、宮崎城(※8)の城主・奥平美作守信昌おくだいらみまさかのかみのぶまさ公の免許を得て宮崎(※9)の地にお寺を建立し、池上本門寺の末寺となり「本城寺」と称することになりました。

これが慶長3年(1598年)、本城寺第六世・源乗坊日吏げんじょうぼうにちり上人が住職の時の出来事です。(池上本門寺は第十二世佛乗院日惺ぶつじょういんにっせい上人の時です)

※8:現在の富岡市立西中学校一帯にあったお城
※9:宮崎村(現富岡市宇田)とはまた別の地。現在も富岡市宮崎として残っている。

現在の富岡市富岡に移転、その後…

寛永2年(1625年)、中野七蔵という代官だいかん(※10)が新田開発(※11)のタイミングに合わせて現在の場所に本城寺を移転させました。

明暦2年(1656年)、お堂や仏具などが全て焼失しましたが、守清の孫にあたる石井吉継いしいよしつぐらが多くの資金を投入し、万治3年(1660年)に本城寺を再建しました。

天保14年(1843年)、またもや本城寺は火災になりますが、安政元年(1854年)に三十世諦世院日総たいぜいんにっそう上人の代に再建。

明治26年(1893年)、第三十三世・玄修院日地げんしゅういんにちじ上人の代に諸堂の修繕を行います。

昭和58年(1983年)、第三十九世・一乗院日寛いちじょういんにちかん上人の代に本堂の屋根替え、昭和61年(1986年)に本堂増築。

平成6年(1994年)、第四十世・大通院日環だいつういんにちかん上人の代に山門建立、平成23年(2011年)熊王殿建て替え、平成24年(2012年)鬼子母神堂建て替え。

令和5年(2023年)7月1日、第四十世大通院日環上人が新潟県柏崎市妙行寺に入寺した為、息子の大乗院日寛だいじょういんにちかん田村明啓たむらみょうけいが本城寺第四十一世となり、現在に至ります。

※10:地方を支配する昔の役職
※11:新しく開発して田畑を広げること

寺院概要

名 称朗惺山 本城寺
宗 派日蓮宗
所在地〒370-2316 群馬県富岡市富岡甲890
電話番号0274-62-0809
営業・勧誘は固くお断りします。
開 創法華堂が出来たのが1500年代後半
本城寺となったのが慶長3年(1598年)
代表者田村 明啓

寺院風景

日蓮聖人像

本堂(安政元年(1854年)に再建)

鬼子母神堂(平成24年(2012年)に再建)

熊王殿(平成23年(2011年)に再建)